「オープンソース(・ソフトウェア)」という名前が初めて使われたのは1998年のことである。
それまでは、LinuxもApacheもフリーソフトウェアという言葉で語られており、日経コンピュータや日経コミュニケーションの特集でも「フリーソフト」という言葉であった。そして、そろそろ基幹系も含めた企業の情報システム全体で使えば情報化投資が削減できるのではないかとの期待や、これらのフリーソフトウェア自体をビジネスの対象として捉える風潮から、新しい言葉として「オープンソース(・ソフトウェア)」が生まれた。
私が前職であるテンアートニ(現サイオステクノロジー)を、大塚商会の支援を得て立上げたのが1997年であり、会社のキャッチフレーズは「JavaとLinuxによるSI企業」であったが、このころは、オープンソースという言葉は存在していなかった。
設立当時は、SlackWareというLinuxディストリビューションをベースに、アプレットしかなかったJavaで業務アプリケーションを構築するというトライをしていた。このSlackWareをCDに焼いて売っていたのが、後にTurboLinuxディストリビューションを開発し、日本のRed Hatを目指したクリフ・ミラー氏(現マウンテンビューデータ社長)であった。また、Javaを主業にするということから、テンアートニ設立の記事を見て、すぐに取材に飛び込んできたのが、日経Javaレビュー編集長であった星 暁雄氏(現コモンズ・メディア社長)であった。
考えてみれば、オープンソース・ビジネスの創世期は「ワクワクする時代」であった。
マイクロソフト支配への有力な対抗手段、Web環境ではサン・マイクロシステムズへの価格対抗、IBMやOracleという大手がLinux支持に回り、それにJavaのサン・マイクロシステムズもマイクロソフトと裁判で係争中と、まさにこれから何かが起きるという活気に満ちあふれていた。ライセンスの問題や旧来のフリーソフトウェア側との調整、コミュニティの急激な広がりなど様々な流れがおきた。
現在は、オープンソースの技術もビジネスも、一段落という安定期に入っている。Red HatによるLinuxサーバーの大規模な企業導入も常識化し、ネット企業のインフラとしてのオープンソース活用も当たり前、何か時代を変えるような仕組みも少ないように感じる。
大手SI企業も次々とオープンソース・ビジネスへの参入を表明している。ユーザーからみれば大手の方が安心との判断もあり、豊富な資金から適度に投入すれば、オープンソース事業は進められ、ビジネスの拡大につながるとの発想からだ。
だが、この傾向は初代ネットバブル時代に似ている。
大手がネット事業に参入したころは、これからはネットの時代で、そこには現在の経済価値を上回る市場への期待があった。ところが、まだ当時のネット市場は未成熟で、思った通りの収益を稼ぎ出すことはできず、撤退したところが多かった。
ネットバブルもこうして大企業の参入と撤退を経験し、生き残ったベンチャー企業がその新市場の覇者となって一般化してから拡大したネット市場を掌中にしたのである。
オープンソースの事業環境も、中央省庁や自治体が積極的に旗を振り、民間を含めたユーザー企業が、オープンソースを当たり前に使い始めたので、大手SI企業は案件を獲得するためにオープンソース事業参入を表明するが、その市場規模は、もともと無償や廉価を前提としていて従来の情報システムほど売上も収益も見込めない。
オフィスや管理部門など間接費用となる経費が大きい大企業では、これを支えるだけの収益が出せるかが問題となり、やがて撤退せざるをえない状況を迎える可能性が高い。
ネット・ビジネス同様、ユーザーの中に入り込んでしまっているため、現実的なニーズは引続き存在する。但し、すべてがオープンソースなどは希で、商用(プロプライエタリィ)ソフトウェアとの共存が標準的なユーザーの形態となる。
この市場を確実に捉え、大きく育てていくことが重要である。
これからのオープンソース・ビジネスは安定期に入り、近い将来の市場拡大を信じての「生き残りの時代」かも知れない。
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