テンアートニ創業期1997年の広告
5月23日は、Javaの誕生日(初めてJavaと言う名前が発表された日)であるとともに、テンアートニ(現サイオステクノロジー)の創立記念日でもある。Javaは1995年だったが、テンアートニはちょうど2年後の1997年に創立した。
私は1997年1月に大塚商会と顧問契約を行い、6月までに大塚商会の子会社として先端技術を追求できる会社の設立を準備していた。
当時の米国のIT関連ニュースをウォッチしていて、「米国で話題沸騰、日本ではまだこれから」というものを採り上げようと思い、先ずJavaをビジネスの中心にすることは決まった。
このころのJavaは、まだアプレットだけしかなく、サーバーからダウンロードさせてクライアントで実行させる方式である。このダウンロードさせるサーバー側をどうするか、創業メンバーといろいろ議論した結果、米国の雑誌PCweekの記事の中に、NetscapeとLinuxの組合せが、SolarisやWindowsサーバーと並んで掲載されており、Linuxはフリーソフトウェア(当時はまだオープンソースという言葉はない)として新鮮でJavaにはピッタリだと思った。
但し、当時のSun Microsystemsにしてみれば、JavaはSolarisサーバーを売るための道具でもあったので、あまりやりたくなかったようだ。
したがって、我々にとってこのニッチなマーケットは、まだ手付かずで魅力的なものとなった。
こうして、「JavaとLinuxによるSI企業 テンアートニ」は誕生したのである。
テンアートニという名前は、企業をターゲットとしていたことから、企業内でのインターネット利用を意味するイントラネットを英字intranetにして、逆から読みtenartniに、更にtenを数字の10にしたものである。10(たくさん)のart(芸術的)なni(ネットワーク・イノベーション)の意味にもつながった。
Linux開発者Linus Torvaldsのサイン入りノートPC
そのころ、日経BPのある編集長と話していたら、最近の学生はJavaやフリーソフトウェアに詳しい人たちが多い。アルバイトで使ったらフリーソフトウェアの経験の少ない一般のSEよりも効果が高いのではないか、との指摘を受け、学生アルバイトを募集したところ、超一流大学の学生や院生たちがたくさん集まり、一時は10名くらいいたように思う。
彼らも、これらの技術を追求していたが実際に試す場がなく、当時のテンアートニで仕事として実践することは楽しいことのようだった。
ある意味では、彼らとのコラボレーションがテンアートニの創業期を支えてくれていたような気もする。
今年の5月23日には、十分に連絡がとれなかったが、それでも20数名のOBOGたちが集まり、セルベッサ(外食受発注システムのオープンソース)でご縁のあるニユートーキヨー本店の9階で、10周年記念の宴を催すことができた。
一番驚いたことは、「社長」が多いこと。
小さな企業とは言え、自分で会社をやってみたいという気持ちは、ベンチャーとしての第一歩でもある。
そして、世の中の何かにチャレンジすること。何かとはその人の環境や時代によって異なるかもしれないが、ただ会社を立上げて社長になっただけではベンチャーではない。
これは、10年前のテンアートニも同様であった。
世の中を変えるために、ITビジネスの仕組みを変えるために、ベンチャーとして活動してきた。JavaやLinuxは、あくまでも環境や時代が与えたキーワードであり、今の時代となっては、この2つは完全に一般化してしまっているのである。これについては、Red Hat Linuxの普及を推進し実現したサイオステクノロジーの喜多社長の努力によるところも大きい。
何か新しいキーワードを掲げ、ベンチャーとして新たなチャレンジをして欲しい。
大袈裟にいえばテンアートニのDNAとでもいえるものを、OBOGを含め社員が持ち続けてもらえていることは大変に嬉しいことである。
もちろん、現在のオープンソース・ジャパンの社員も同様で、それぞれいろいろなことにチャレンジしているところである。そういう私もまだまだチャレンジの最中なのだ。
これらのメンバーの中から、株式公開を目指すような人たちが現われ、世の中を変革する旗手となる人がでてきて欲しいと心より願っている。
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